2014.04.08 Tue TEXT:BANANA CATEGORY:column
現代のEUやアメリカのDJシーンや巨大フェスティバルは、拡大の一方を辿っているが、もともと、それらの地域に根付いている、ヒッピーカルチャーやレイブパーティーから派生したものや、DJ達が持つパーティースピリットから始まったと言われている。
ここでレイブカルチャー、ハウスミュージックの歴史を少し紐解いてみよう。
DJやプロデューサー、同じ音楽テイストや趣向を持った人たちから「自然」に始まったもので、DJ達が現代の音楽シーンを形成してきた。
アンダーグラウンドのムーブメントとして始まったレイブは、 音楽に合わせて何時間も踊れる環境を作り出した。 それだけでなく、レイブは、ライティング、ファッション、アティチュード、精神や概念をも包括している。
1980年代前半に、Rolandから発売されたシンセサイザー TB-303からすべては始まり、それがUKへと伝えられ、様々なサブジャンルを生み出してきた。
若かかりしNathan Jones(DJ Pierre)はTB303を見つけ、アシッドハウスサウンドを生み出した。
DJ Pierreらによって組まれたグループPhutureのLP "Acid Tracks" はDJ Ron Hardyにより、シカゴのクラブMusic Boxでプレイされ、、、という流れで、またたくまにハウスはダンスフロアのセンセーションとなった。
1987年までに、ハウスミュージックはUKへと広がっていく。 最も有名なのが、Paul Oakenfold、Danny Rampling、Nicky Holloway、Johnny WalkerのDJ達。 彼らはイビサ島へ行き、クラブAmnesiaでDJ Alfredがプレイしていたバレアリックスタイルに惚れ込み、自国UKに持ち帰った。
1987年にはCarl Coxのサウンドシステムを用いた、「Shoom」というパーティーが開催された。 Shoomのフライヤーのスマイリーマークはアシッドハウスのシンボルとなり、 サンフランシスコのSummer of Loveに続く、「Second Summer of Love」と称された。
Nick HollowayはThe Tripというクラブをウエストエンドにオープンしたが、 客の悪態などにより、イベント開催の規制が厳しくなったいった。 プロモーターやDJ達は追いやられて行き、廃墟となったウェアハウスやアンダーグラウンドのベニューへと移動していった。 これが、初期、レイブパーティーの始まりとなる。
メディアがこれらの一連のウェアハウスのパーティーの注目しはじめ、 1990年には有名なトラファルガー広場で「Freedom to Party」と呼ばれる キャンペーンが開催されたりもした。
規制も少し緩まり、クラブ側はオールナイトで営業できるようにもなった。
1990年台前半は、Fantazia,、Universe、N.A.S.A. (Nice and Safe Attitude)、Raindance,、Amnesia House、ESP、Helter Skelter などのプロモーターや運営団体がウェアハウスや、野外で巨大なレイブパーティーを次々と開催して行った。
政府による抑圧と民衆の反動の繰り返しによって、レイブ、パーティーカルチャーは発展して行ったといえよう。 ドイツは、ベルリンの壁崩壊とともに、またニューヨーク、サンフランシスコ、トロント、など他の地域でも同時多発的にその勢いは広がって行き、独自の発展をとげていった。
90年代後半になると主要メディアがレイブのあり方を批判するようになり、世論もそれに賛同していった。 と同時に、事故や死亡者がでるなど、悲劇的な事件が起こり、シーン自体が収縮していった。
レイブが残したものは、ただオールナイトで踊っている。ドラッグが蔓延しているというような負の側面ではなく、「体験」するということだった。
特別なDJや海外からのMCを迎え、人々は毎週パーティーに押し寄せていった。
80、90年代はまさにDJ、レイブシーンの黄金時代だった。 そしてそれは現代のダンス、エレクトロミュージックを生み出し、メインストリームに押し出した。
そして2000年以降、EDMシーンは爆発的に広がっていた。
今日ではあちこちのショップやテレビからも、イーブンキックが聴こえるようになった。
世界的にはダンスミュージックは根付いたのだ。
日本ではどうだろうか。